華岡青洲の妻、加恵とは

名前 華岡加恵
(はなおか・かえ)
生誕 1760年生まれ(江戸時代)
没年 1827年死去(江戸時代)
※68歳
肩書 華岡青洲の妻
出身地 那賀・名手(なて)町
※現在の和歌山市紀の川市
旧姓 妹背(いもせ)
実家 武士(郷士)である妹背家の二女として生まれた。

妹背家は、紀州侯が参勤交代に宿泊する本陣(ほんじん)だった。
格差婚 医者という職業は当時、僧や山伏などと同様、特殊な技芸者とみなされていた。
子供 3男4女を産んだ。
病気 39歳で盲目になった。
盲目になった原因 夫の実験台として麻酔薬を飲んだことが原因というのが有力な説とされる。 麻酔薬である「通仙散」の成分トリカブトに含まれるアコニチンによる動眼神経の障害が考えられるという。
盲目になった後の青洲によるサポート(罪滅ぼし?) 彼女のために部屋を建て増しした。阿波の国から太夫(たゆう)を招いて人形浄瑠璃を語らせ、慰めた。
義母 於継(おつぎ)。篤志家であった医師の夫を支えて4男4女を生み育てた。

京都遊学の息子・青洲に機織りで仕送りを続けた。

夫亡き後も息子を誇りにして生きた。
小説 「華岡青洲の妻」(著者・有吉佐和子)
1967年(昭和42年)にベストセラーとなった。

華岡青洲の母と妻が「ぜひ、自分の体で実験をして」と張り合う緊張関係を描いた。
小説の著者
有吉佐和子

1931年(昭和6年)和歌山生まれ。

地元でハイカラで名をはせ、故郷を飛び出し、東京女子短大に入学。

在学中から創作活動を始め、1956年(昭和31年)、デビュー作『地唄』が文学界新人賞。

出身地紀州を舞台にした女四代記『紀ノ川』で筆名を上げ、『出雲の阿国』『華岡青洲の妻』と話題作を連発。

1970年代前半(昭和40年代後半)からは『恍惚の人』『複合汚染』など、社会派意欲作を発表した。

舞踊、人形浄瑠璃、新派の劇作から演出までこなした。

1984年、自宅で急死。53歳だった。
テレビドラマ
「華岡青洲の妻」
NHKの金曜時代劇
6回シリーズ
2005年1月21日から6週連続で放映された。
金曜21時15分~

<出演俳優>
谷原章介(華岡青洲)
和久井映見(妻・加恵)
田中好子(母・おつぎ)

<原作>
有吉佐和子著「華岡青洲の妻」
原作のあらすじの一部
(ネタバレ注意)
ある夜、青洲の寝所で加恵が夫の着替えを手伝っているとき、於継が唐紙を開けて音もなく部屋の中に滑り込んできた。

夜更けではあり、夫婦の間にはそのとき通い合うもののあった折柄で、加恵はいきなり覗き見されたような厭な思いと羞恥心でそこに釘付けになった。

於継はそういう加恵には一瞥(いちべつ)もくれずに青洲の前にぴたりと座ると、迫るようにして口を切った。「麻沸湯の実験は私を使うてやりよし」〉
「びっくりしますがな」と笑い流す気の青洲に、於継は断固として続ける。

「雲平さんの研究に人間で試すことだけが残ってあるのを、身近くいて気付かないのは阿呆(あほ)だけや。私は雲平さんを産んだ親ですよってに、雲平さんの欲しいもの、やりたいことは誰にもましてはっきりと分かるのやしてよし」
阿呆呼ばわりされ、「親だから」という優位を示された妻の加恵は、瞬間、激しい言葉でこたえる。

「とんでもないことやしてよし。その実験には私は使うて頂こうとかねてから心にきめてましたのよし。私で試して頂かして」
寝所で延々と続く2人の言い争いをぶぜんとして見ていた青洲は、「ほな、2人にやってもらう。いずれは欲しい人間の躯やったのや」と、医者としての判断を優先させる-。

ところが、この人体実験の先陣争いは、於継の“完敗”に終わる。

青洲はひそかに、母親には偽薬(睡眠薬)を与え、妻の加恵には本当の麻酔薬を処方していたのだ。

於継は、刻々と変わる妻の状態を心配そうに記録する息子の横顔を見て、「私のときは、あんなに心配しなかった」とうすうす、実験のからくりに気付く。

そして、しばらくして、朽ち折れるように亡くなるのである。
谷原章介らドラマ出演者のインタビュー記事(2005年) 和久井映見と田中好子の二女優の横で、谷原章介(当時32歳)は「お二人ともふだんは物腰が柔らかくて美しい方ですが、ドラマでは間に挟まれてとてもつらい2カ月でした。お二人のバトルを楽しんでください」と端正なマスクに微妙な笑みを浮かべる。

過去に何度も映画、舞台、ドラマ化されてきた有吉佐和子の代表作のドラマ化。

江戸時代後期の1804年、世界で初めて全身麻酔を用いた乳がん手術に成功した紀州(現在の和歌山県)の医師・華岡青洲(谷原)の長年にわたる研究を、実験台となって支えた妻・加恵(和久井)と青洲の母・於継(おつぎ)(田中)。

この2人の壮絶な葛藤(かっとう)を描く。

収録は2004年のうちにすべて終了した。

「於継さんの強い視線が恐ろしくて悩んでいた加恵が少しずつたくましくなって彼女に笑顔で言葉を返すようになる。それが演じていて楽しかった」(和久井)。

「嫁いびりの役は初めてだったので最初は悩みましたが、だんだん快感になりました」(田中)と明かすバトルはなかなかの迫力だ。

谷原は、「青洲は素朴で不器用な男。ただただ医師としての目的を遂げることに懸命で周囲から『あんなことをしてまで…』と思われても意に介さなかったし、二人のどちらにも加担しなかったのだと思う」と青洲像を分析する。

一方で、先輩の二女優の役作りについてはしっかりチェック。「お2人が(共演場面の収録以外では)いつも距離を置いていることに気づき、こうして役作りをしているのだと思いました」と言いつつ、「でも、女の(業の)すごさに男はかなわないです」。
舞台・芝居 文学座の舞台。杉村春子が当たり役だったとされる。
絵画 和歌山県出身の日本画家、立石春美の作品『青洲実験図』。 妻の加恵が覚せいしてくる様子を、青洲と於継が見守っている。
ゆかりの地
春林軒塾
春林軒塾は1804(文化元)年、青洲が、全身麻酔による乳がん手術を世界で初めて成功させた住居兼病院・医学校である。

主屋(おもや)(約215五平方メートル)には、南側に患者の控室、診察・手術をした板の間が並び、北側に於継(おつぎ)や加恵が麻酔実験に貢献した奥居間、茶の間、炊事場などがある。

主屋の周囲に、薬調合所(97平方メートル)と門下生の部屋、病室3つ(35平方メートル)、看護婦棟兼米蔵(85平方メートル)、薬草を保管した蔵(45平方メートル)が並ぶ。


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