麻酔医・華岡青洲(はなおか・せいしゅう)は、世界で初めて全身麻酔を実用化した日本人医師。1804年、乳がん摘出手術に成功した。患者を手術時の激痛から救う偉業。言い伝えでは、妻は麻酔薬の実験台となり、副作用で失明した。
読み方 | はなおか・せいしゅう |
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職業 | 江戸時代の医師(麻酔医、外科医) |
出身 | 和歌山県紀の川市(当時は、紀伊西野山村) |
業績 | 世界で初めて全身麻酔を実用化した。 1804年、乳がん摘出手術に成功した。 |
業績の意義、価値、評価 | 悪いところを取り除く「切除手術」を可能にした。 患者が手術時の激痛から解放されるようになった。 (今ならノーベル医学賞に相当するような偉業とも言われる。) |
誕生 | 1760年11月30日 =江戸時代の後期 |
死去 | 1835年11月21日(74歳で死去) =江戸時代の後期 |
実家 | 祖父の代からの在村医 |
父親 | 直道(じきどう)・・・医師。大阪で南蛮流外科を学んだ。 |
母親 | 於継(おつぎ) |
兄弟 | 弟3人、妹4人 (8人きょうだいの長男) |
妻 | 加恵(2歳年下) |
通称、愛称 | 雲平(うんぺい) |
学歴 | 23歳の時、京都に出て3年間、医学を学ぶ。 学んだのは、古医法(漢方を中心とした内科に相当)と、南蛮流外科(オランダ流カスパル流外科)。 |
影響を受けた人物 | 華陀(かだ)・・・3世紀頃の中国の伝説的医師 マンダラゲ(チョウセンアサガオ)で神経を鈍らせ、手術したともいわれる。マンダラゲは京都の整骨医も複雑骨折の治療に使っていた。青洲は修行時代に華陀のことを知った。「マンダラゲの分量を増やしたら」と考えた。 |
麻酔開発の発想 | 当時の外科は、切開して膿を出したり、傷を縫合する程度のものだった。 それまでの縫合は、しょうちゅうを飲ませたりして行っていた。 青洲はいつしか、もっと根本的な治療(摘出)を考えるようになった。 今まで治療できなかった病気を治したい、そのためには悪い部分を切り取ればいいのではないかと考えた。 そのためには大手術に耐えるような麻酔が大切、という発想を得た。 全身麻酔薬の必要性を強く感じていた。 |
麻酔開発着手の時期 | 京都から和歌山の実家に戻ってから |
麻酔薬の開発にかかった年数 | 20年 |
開発した麻酔薬 | マンダラゲを主成分に、山野で採取したトリカブトなど薬草6種を配合、「通仙散」が完成した。 |
完成年 | 友人、中川修亭が書いた「麻薬考」によれば、青洲の麻酔薬は1796年頃までに完成し、十数人に使用したが、手術に使うまでさらに数年待った。 |
当時の女性にとっての乳 | 当時、女性の乳房は急所とされた。 乳房にメスを入れることは“女の急所を傷つけるので命を断つことになる”と信じられていた。 しかし、ある日、胸を牛の角で引っかけられた女性を青洲が縫合し完治させる。 この経験から、乳房にメスを入れても大丈夫と確信し、通仙散を用いた乳がん手術をすることになった。 |
最初の乳がん摘出手術の年月日 | 1804年(文化元年)10月13日。 |
最初の乳がん摘出手術の患者 | 高齢女性。 奈良・五条の藍屋利兵衛の母(勘、60歳)。 当時難病だった乳がんを患っていた。 姉も同じ症状で亡くなったという勘は「名医の手にかかれば、死んでも本望」と手術を懇願した。 薬で全身麻酔を施し、摘出した。 |
「世界初」の意味 | アメリカでのエーテル麻酔の公開手術成功の42年前 |
使用した麻酔 | マンダラゲを主成分にした麻酔薬「通仙散」 |
開発した麻酔の副作用 | 成分であるマンダラゲなどは毒性が強い。服用すると脈が速くなり、頭痛、吐き気に襲われることもあったらしい。 |
それまでの痛い治療 | それまで傷の縫合などは、一般に強いアルコールを飲ませたり、殴打して気絶させて行われていた。 |
麻酔の人体実験 | 言い伝えによると、妻の加恵、母の於継(おつぎ)が麻酔薬の実験台になった。その副作用で加恵は失明したと考えられている。 |
手術の患者数と件数 |
乳がん手術100件以上。 「乳癌(にゅうがん)姓名録」には青洲の診察を受けようとやって来た156人の患者名を記す。 近畿はもちろん、北は陸奥(青森)から南は筑前(福岡)まで。 遠国から病を抱えながらの長い旅路。 |
治療の領域 | 現在でいうところの外科、整形外科、泌尿器科、耳鼻科、眼科、産婦人科域に及ぶ手術を行った。 |
勤務先 | 病院「春林軒」 春林軒(しゅんりんけん)は、華岡青洲の屋敷であり病院、そして医学校。 1999年春、那賀町役場が復元。近くに青洲の使った手術器具などを展示した博物館なども建設し「青洲の里」として整備した。 春林軒の母屋は215平方メートル。付属施設を合わせても660平方メートル程度。 |
後輩の指導・育成 | 春林軒(しゅんりんけん)を診療所兼医学校として創設。全国から入門希望者がやって来た。 手術成功から亡くなるまでの約30年に入門した塾生は994人。(青洲生存中トータルにこの地で学んだ塾生は1033人を超えたそうだ。) 大坂・中之島には分塾「合水堂」を開設し、弟の鹿城に任せた。門人は合計で1800人を超えたという。 修業を終えた門人に、免状と引き換えに提出させたのが誓約書。「手術、秘薬を親、友人といえども教えてはいけない」。血判も押させた。 |
弟子の活躍 | 門人たちは故郷へ戻り、幕末・明治維新期の地域医療を支えた。 門弟たちが通仙散による麻酔を全国に広め、外国からクロロホルムやエーテル麻酔が導入される明治中期以降まで行われたそうだ。 |
技術の公開 | 門外不出の秘伝とした。麻酔薬の処方は門人以外に伝授しなかった。今なら必ず科学誌に投稿するだろう最先端の医療技術。「青洲の麻酔は命にかかわる高度な技術。失敗すると華岡の家名も傷つけると考えたのでは」という推測がある。 |
性格 | 質実純朴、軽薄を忌み、外見を飾らず、超然としていたと伝えられている。 |
政府(権力者)との関係 | 当時の紀伊藩主・徳川治宝(はるとみ)から侍医として城下に住むよう求められた。 徳川治宝学は問の振興に熱心だった。 再三の要請を受けた。 しかし、「私は元来、庶民の病気を治すことを使命と心得ています」と言って、登城しなかったと伝えられる。 月のほぼ半分は西野山村の春林軒で診療を続けた。 |
漢詩 | 華岡家墓所のそばに、青洲の漢詩を刻した記念碑がある。 「竹屋粛然烏雀喧 風光自適臥寒村 唯思起死回生術 何望軽裘肥馬門」。 難しい病気を治す方法をひたすら考え、ぜいたくは望むなといった意味だろう。 郷里に帰る塾生に与えたという。 |
記念館「青洲の里」 | 華岡青洲が住居兼診療所、医学校とした「春林軒」が和歌山県紀の川市西野山に復元されている。 青洲の遺品や史料を展示した部屋やレストラン、公園がある。 入館料600円(2019年4月現在)。火曜定休(2019年4月現在)。 主屋を囲んで門下生部屋・薬調合所、病棟、看護婦宿舎、蔵などがある。 周辺は「青洲の里」として整備され、展示施設のフラワーヒルミュージアムでは、青洲が考案した手術道具のメスやはさみ、愛用した眼鏡、手術時に着用した羽織、袴(はかま)などを見ることができる。「解体新書」の杉田玄白からの手紙も紹介されている。 近くのため池のほとりに華岡家の墓所がある。一族の中で青洲の墓石はひときわ大きい。 ホームページ: http://seishu.sakura.ne.jp/index.shtml |
墓 |
華岡家の墓地は、春林軒塾から北西200メートルほどの場所にある。 参道を50メートルほど進むと、和歌山医大麻酔学教室の献燈があり、さらに奥に、カシや桜の木立に囲まれて、青洲の墓がある。 ため池のほとりにある33基の中でひときわ大きな傘つきが青洲の墓。後ろに母と妻の墓もある。 於継の墓石には「蓮浄院智貞信尼」、加恵には「蓮光院法屋妙薫大姉」、青洲の墓には笠石が置かれ、「天聴院聖哲直幸居士」とある。 小説家の有吉佐和子は「青洲の墓の正面に立つと、加恵の墓石も、於継の墓石も視界から消えてしまう。青洲の墓はそれほど大きい」と書く。 |
伝記 | 「華岡青洲先生その業績とひととなり」 青洲の医師としての業績を、文献に基づき分かりやすく描く。 著者は和歌山県立医大の上山英明名誉教授(麻酔学)。 Amazon→ |
テレビドラマ | 「華岡青洲の妻」 NHKの金曜時代劇 6回シリーズ 2005年1月21日から6週連続で放映された。 金曜21時15分~ <出演俳優> 谷原章介(華岡青洲) 和久井映見(妻・加恵) 田中好子(母・おつぎ) <原作> 有吉佐和子著「華岡青洲の妻」 |
小説 | 有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」。麻酔薬実験をめぐる嫁としゅうとめの確執がテーマとなっている。 |
華岡青洲に詳しい学者 | 和歌山県立医科大学の上山英明・名誉教授。和歌山県立医科大学の麻酔学教室の初代教授 |